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演劇についての新たな考察 – ペーター・コンヴィチュニーを迎えて [その他]

 コンヴィチュニー氏を見て最初に感じたのは、懐かしさだった。氏は痩せて歳も取って、誰にも時が過ぎたと実感する。このブログで数えてみたら2005〜12年まで氏の舞台を10作品は見た。それ以前にも見ているし、複数回見たものもあるが、随分前の気がする。当時、人の普通の感情を音楽に合わせて、表現できる舞台が凄いと思った。この日、解説のあった、ドン・カルロの「エボリの夢」は、もう一度見たい。あれほど音楽が場面にピッタリマッチした舞台は、傑作だ。笑い転げた。氏はプログラムに演出コンセプトを小難しく書いていたが、この会場では、とても平易な言葉で卒直に話された。そもそも、inszenieren(演出)とは、音楽をSzene にin(入込む)する事だと。そう言われ、はたと、魔笛のある場面の演出意図に思い当たる節があった。当時は疑問に思ったことだ。勿論意図が分かっても、全てに賛同する訳ではないが。
 コンヴィチュニーが、人の気持ちを揺さぶり、観客を啓蒙しようとするのは、現代演出とは違う。本来音楽は場面やその場の心情を表現しているはずだが、それを眼前に見せることは難しい。コンヴィチュニーは、個々の作品のスコアも、広く音楽が物事、心情を描写する本質的機能についても熟知しているから、まるで魔法がかかったように、音楽と場面が相互にマッチしてしまうのだろう。
 もう一つ、気づかされたことは、原作の結末を変えてしまう理由だ。例えば、今回二期会の「魔弾の射手」はもう20年近くまえの演出を、少し日本風にアレンジしたそうだ。氏曰く、この作品の舞台で、よく、ザミエルの悪魔がおとぎ話のように扱われるのは、最後唐突に隠者を登場させ、話をまとめるところに理由があると。作品成立の時代背景から、原作通りでは、検閲に通らないからの妥協策とのこと。だから、自分は、ザミエルを本来社会に存在する、悪魔的なものとして正しく扱い、結末と変えたと。結末を変えたり、作品中には居ない役作ったりする演出は、例えば原作に政治的制限があったと感じたり、時代の変化の中で、違和感を感じ、現代の一般大衆の感情や価値観に適合させようと、演出家が、独自性を加味するという意味で、ポジティブなことなのか。作曲家は音楽に妥協は無くとも、台本は手加減したかもしれないことは、なるほど想像できる。
 観客も演出家も、十人十色。相性の良い演出家に出会いたいものだ。
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ザムエル役、宝塚、大和 悠河さんと
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