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ミュンヘンの「今」を知るための近代史、現代史 [講演会]

 日独協会主催、柳原先生のミュンヘンからのオンライン講演の第二回目があった。
 ミュンヘンはドイツ第三の都市だが、田舎っぽくて健全、上流意識があって「やバイエルン」という言葉があるらしい。京都ご出身の先生がお仰ると、京都みたいな感じなのかな、と想像した聴講者は結構いたようだ。
 私個人の近代史との接点は、2009年、連れ合いの念願だったオクトーバーフェストに行った時、市内ではなくフライジングに宿泊し、山の上のWheienstephanで、ビール全種類飲み、カロリー記載のビールリストをもらって来てからだ。ミュンヘン空港からバスでフライジングに入るルートを何度も使っていたのに、この時初めて、市内を歩き、カテドラルの中で、フライジングがミュンヘンより古いと知った。当時、歴史を話してもいいが、長くなるのでと言われたが、今、やっとその意味を認識した。
 講義の中で身近だったのは、いつも行く、シュターツオパー前の広場にある立派な銅像、マクシミリアン1世以降の話。二代目ルードヴィッヒ1世は、ミュンヘンの北側を整備し、ピナコテークを開設し、ミュンヘンに大学を移転した。結婚記念の祭りがオクトーバーフェストの始まりだったが、ビールの値上げ等、市民の反感を買い、退位後、市民のビール祭りとなった。三代目マクシミリアン2世は科学・学術院を創設し近代化を進めた。次のルードヴィッヒ2世はほとんどミュンヘンの整備をしておらず、ノイシュヴァンシュタイン城を訪ねたことないドイツ人は多いそうだ。この城の不思議なところは、当時の最新のテクノロジーで「復古」を試みたこと。
 第一次世界大戦下、バイエルンからプロイセンへ穀物を送り援助した。そのため、バイエルでビールの材料がなくなり、ビールの質が落ち、飢餓も発生。プロイセンとは、その恨み以来、不仲とか。
 ヒットラーがウィーンからミュンヘンへ来て感動したのは、まさに近代化と復古主義の融合だったと。
 自分の強制収容所の認識も間違っていた。種類が色々あり、唯一行ったことのある、ダッハウは労働収容所であり、近郊の現場からの要請に応じて、その人数を派遣していたとのこと。先生が間もなくダッハウの本をご出版予定なので勉強しようと思う。
講師:柳原伸洋 先生 (東京女子大学歴史文化専攻教員、アウクスブルク大学客員研究員)
2020年8月6日Hiroshima Tag München Marienplatz
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呼び方は色々 発酵途中のワイン 美味しいそうです Roter Sauser
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