SSブログ

團伊玖磨 夕鶴-新国立劇場 [オペラ(国内)]

 オペラ「夕鶴」の初演が60年近く前(1952年)とは知らなかった。團伊玖磨といえば、パイプのけむり、合唱組曲「筑後川」のイメージが強く、28~29歳で、既にオペラを作曲していたとは、たとえ、後に手を加えたとしても、すごい人だったのだ。序曲は、物悲しいヴェルディに似ているとちょっと思ったが、進むにつれ、ほとんどはプッチーニ系で、大音量の終止形や言葉や物音を楽譜で表す手法が良く似ている感じがした。機織の音はハープと小太鼓、日本の旋律や方言が、違和感なく音楽に溶け込んでいて、完成当時なら、曲がプッチーニに似ていると言われることは、むしろ名誉なことかもしれない。
 私の世代では小中学校の授業や学芸会でよく木下順二の「夕鶴」が取り上げられたので、台詞も部分的に記憶しており、歌詞が何とか聞き取れる程度で、やはり字幕はあった方が良かった。ただ、内容は子供の身には財欲の悲劇より、約束を破ると幸せが去っていくという悲しい昔話の印象が強く、今日夕鶴を観る機会に恵まれたことは幸運だった。既に800回も上演されているそうで、1957年に早々とチューリッヒ歌劇場がドイツ語上演しているとのこと。これは日本のオペラとして残るかもしれない。
 
 テーマはかなり普遍的なものだろう。与ひょうの人物像は、原作では知能は大人ほどではないが、とても気の優しい人物として描かれていたと思う。でも舞台上のお人よしの与ひょうを通して私が思い描いた人物像は、人が良く、ばか正直であるが常識には欠け、人から受ける親切と仕事の上意下達とを勘違いしている昭和のサラリーマンだった。熟年離婚が話題となり始めた昭和の終わり、退職後、部下のように家族を扱う勘違いが悲劇の誘因となっていたのではないかと、ふと思った。一方つうは義理堅く、心が純粋な人物。自分の命を削って人に尽くしていることを、敢えて口にしないのだ。そんな二人の行き違いは早晩起こるはずだ。つうが激さず立ち去るところや、惣ど、運ずの社会悪的役どころは、ローエングリンの筋にも似ているかもしれない。
 しかし、日本人のように、受けた恩義に報いようとか、相手を思いやって何かを我慢したり、自分の中に不協和を起こしつつ、相手のために自分を犠牲にするという思考は、西洋人(ドイツ人)には無いのではないかと、私は感じている。10年前までは全く知らなかったが、自分のやりたいことだけをやるのが西洋人で、お互いの自由意思を認め合う社会なのではないかと学習した。相手を思いやって、自分の意思に反する行動をとることは、日本人に比べて、格段に少ないのではないかと思う。我慢するより離婚する方がお互い幸せだという考え方からも伺える。夕鶴が日本以外で共感を得るとすれば、つうが堂々と自分の意思を貫くあたりだろうか。(G)
【指揮】高関 健 【演出】栗山民也
【つう】釜洞祐子  【与ひょう】経種廉彦  【運ず】工藤 博  【惣ど】峰 茂樹
【管弦楽】東京交響楽団
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0